「結束」
私たちIIBAは身近な人々、延いては日本国民のために徳行をなし、経済社会を救うことのできる組織となれるよう心一つに結束致します。IIBAは1996年より計画をもって28年に渡り礎を育み第四次産業革命の到来を見越し2023年12月19日に発動。我が国も元号が平成から令和に変わり「和をもって 世の中に平和をもたらす」をテーマの一つに掲げてきた私たちは新しい時代を築きあげるべく、発足メンバーも新しい元号のごとく、さらなる結束が期待されます。経済社会の源は企業一社一社であり、その企業の根幹は”人“であります。同時に人の成長と幸福もテーマにおいている私たちは人としての考え方や在り方を重要視し、新たな時代を築くため強固に結束し冷静な思考と熱き情熱をもって邁進致します。元来、我が国は武士道の国であり、自己鍛錬に重きを置く精神性の国でした。
戦後、高度経済成長を経て、物質的に豊かさを得た反面、精神的な豊かさが失われつつありました。「子供は親の言う通りに育たないが親の通りに育ってしまう」という格言があるように、今一度根本から大人たちが成長し一人ひとりが精神的な豊かさを今一度取り戻し、明るい未来を築くことが私たちの使命であり思想哲学であります。今の若者の可能性を大人のエゴで枠に収めるのではなく、若者に「志」を持ってもらい、それを実現する方法、在り方を教えるためには、まず私たち大人が初心に戻り、若者と共に学び成長し「人生100年」の時代を豊かに送る必要があります。心一つに結束し、一人ひとりが目の前の小さな事をコツコツと積み重ね、着実に一歩ずつ前進することにより組織の成長につながります。その結果、今日の経済社会を救済し、「和をもって世の中に平和をもたらす」ことのできる組織となるでしょう。
2000年代、とある町に苦行と向き合う門下生を人格者へと導く師匠が住んでいました。その門下生の一人のお話です。その彼は、おしゃべりということで知られていました。おしゃべりの彼は他の仲間に対して愚痴をこぼし、裏で人の悪口を言いながら他人の前では良い顔をしている人生を歩んでいました。彼の自慢話や自分は優れた人間だと主張する姿に周りも飽き飽きしていました。その門下生は言いました。「自分は裕福な人間です。望めば、快適で何不自由のない生活を送ることができます。しかし、自分はそれを捨ててここに来ました。なぜなら、自立して自分でたくさん稼げる人間になりたいからです。だから、自分の犠牲は他の皆んなよりも大きいんです」 ある日、師匠は現場で働く他の門下生達も一同に呼び言いました。「新しい月が始まります。皆んなは何か、あなた自身を改善する決意をしてください。自分の能力に応じ て、どんな決意でもいいので自分で決めてください。もし、1ヶ月以内にその決意を破った場合は、古い習慣に戻ることになるでしょう」 全ての門下生たちは、大きな決意や小さな決意をし、師匠に自分の決意を告げて去っていきました。
しかし、自分をより大きく見せたいと思っていた、おしゃべりな門下生は直接師匠の所へ行き、こう伝えました。「自分には小さな決意など必要ないです。とにかく稼いでこの世界で有名になって金持ちになりたいんです。どのような決意をすれば良いか教えてくれないですか?」と彼は言いました。これを聞いて、師匠は微笑み、言いました。「私が与える決意を果たすことができますか?それは、非常に困難な内容です。あなたには難しいと思います。自分で決められた方がいいですよ」。門下生は言いました。「師匠、あなたが与えるどんな決意でも自分はできると思います。自分をなめないでください」 師匠は言いました。「わかりました、それではあなたはこれからの一ヶ月間沈黙しなさい。口から一言も発してはいけません。これがあなたに課せられた、あなた自身の決意です」 門下生は言いました。「師匠、それも決意ですか?それはとても簡単です。1ヶ月黙っているだけでいいんですか?」 師匠は言いました。「はい、そうです。それでは、今からその決意を達成してみてください」 そして彼の沈黙は開始されました。1日目は問題なかったのですが、2日目にはその状況を知らない周りの人達に、彼は挨拶もしない、返事もしないとやゆされ、話さないことの重荷を感じ始めました。3日目には強いストレスを感じ、4日目には奇妙な不安を感じ始めました。数日が経ち、門下生の心は晴れるどころか、話したい欲求で体調は悪化していきました。彼はただ話したいと思っていました。言葉を発することができない門下生は、師匠の元へ行き、紙に書いて伝えました。「師匠、話したいです。どうすればいいですか。決意を破ってもいいですか?」 これを読んだ師匠は微笑んでいいました。
「決意は破るためにあるものです。しかし、決意を果たす者は内なる力を増やします。決意をすることも、破ることも、あなたの手にあります。多くの門下生が決意を破り、昔の習慣に戻りました。もし難しいのであれば、決意を破りあなたも昔の習慣に戻っても構いません。しかし、覚えておいてください。もしあなたが今日この小さな決意を守れないのであれば、あなたはこれからの人生をどうやって苦難困難を乗り越えることができるでしょう。残りの決断は全てあなたの手にあります」 師匠の言葉は門下生の心に響きました。2週間が経過し、他の門下生たちの決意は、次々と破られていましたが、彼の決意はまだ続いていました。決意をしてから今まで、彼は一言も発していません。他の門下生達も、いつもおしゃべりだった彼が突然沈黙したことに驚きました。さらに1週間が経ち、彼は再び師匠のもとへ行き、書いて伝えました。「師匠、自分は外側は沈黙はしていますが、内側では多くの声があります。たくさんの愚痴や不満があります。自分は心の中でずっと話し続け、あらゆる質問をしています。外側は沈黙していますが、内側は騒がしくなっています。自分の決意は本当に正しいのでしょうか?」 師匠は言いました。「はい、あなたの決意は正しいです。あなたの古い習慣がそう感じさせるのです。あなたは話す習慣があるので、外側は沈黙していても、内側では話し続けることになります。その習慣を断つことができるか否はあなた次第です」 門下生は師匠に深く感謝し去っていきました。そして彼はある朝、自分の家を出て山奥の森へ向かいました。
多くの日が経ち、決意の時間も終わりましたが、門下生は戻ってきません。他の皆んなは、彼に何かしら事故か事件に巻き込まれたのではないかと心配していました。しかし、師匠はそう思ってはいませんでした。他の門下生が師匠に尋ねました。「師匠、話しすぎることはそんなに悪いことでしょうか?」 師匠は答えました。「私たちのトラブルの大部分は、多く話す傾向から来ています。多くの家族の論争や争いは、意味のないおしゃべりと、心無い言葉によって引き起こされます。私たちは皆、聞いてもらいたいと思っていますが、他人の気持ちを聴くことに失敗しています。代わりに、私たちは自分の意見を表現し、他人に自分が正しいと納得させようと焦点を当ててきます。これはさらなる誤解を生み、恨みつらみにつながるものです。おしゃべりな門下生が現場を去ってから4ヶ月が経っても、彼は戻ってきませんでした。
そんなある日、皆んなの驚きと喜びに包まれて、彼は現場に戻ってきました。彼は去った時とは同じ人間ではありませんでした。彼は信じられないほどの変貌を遂げ、彼の顔からは平和と穏やかさがにじみ出ていました。現場に戻るとすぐに他の門下生たちは彼を取り囲み、彼も他の門下生たちとついに口を開き、話し始めました。彼と話した他の人々は、彼が以前のようにせっかち で、おしゃべりではなくなったと感じました。彼の口から出る言葉はとても滑らかで甘美でした。しばらく門下生たちと話した後、彼は直接師匠のもとへ向かい言いました。「私はまだ沈黙していますか。私の決意はまだ続いていますか」師匠はしばらくの間、門下生の目をじっくりと見つめ、そして言いました。「はい、あなたはまだ沈黙しています。あなたは口では喋っていますが、あなたの内面はあなたの決意を継続しています」 門下生は言いました。
「現場を去ったとき、私は口では沈黙していましたが、心の中には多くの声がありました。だから私は森へ行き、そこで平和を見つけ、心の葛藤が収まることを望んでいました。しかし、孤独の中へ深く入るほど、内側の声は大きくなり、その時初めて私が家族や仲間たち、師匠に対して悪いことを言っていたことがどれほど間違っていたかを理解しました。その時、私は正しいことを言っていると感じていましたが、仲間の陰口を言ったり、周りに愚痴をこぼしていた時でさえ、私は自分が彼らよりも優れていると感じていました。しかし、その日、私は初めて自分の言葉がどれほど間違っていたかを悟りました」
門下生は続けました。「長い間、これらの声や不平は私の中で続いていましたが、徐々にある日、これらの声は私の中から消えました。今では、私は内側から沈黙しています。その濃密な森の中には、外から話す人はいませんでしたし、内側にも音は残っていませんでした。そして、私は初めて「沈黙」の真の意味を理解しました。その日、私の周りには平和がありました。今まで聞こえなかった声を今はっきりと聴くことができます。
風が吹く音、虫や鳥が鳴く音、水が流れる音。これらの声を、私は初めて完全な意識を持って聴くことができました。私は以前には感じたことのないほどの平和をその森で感じました。だからこそ、あえてこの平和を乱してみようと、私は口から何かしら言葉を発し、叫びました。しかし、私が叫んでも、平和は乱れることなく外も内も穏やかでした」 師匠は答えました。「私たちの内なる不安は、外側で過剰に話すことによって引き起こされます。しかし、内側に向かうと、私たちは何を言っても落ち着いたままでいられます。私たちは沈黙を恐れるため、必要以上に話し、他人のことを理解することに失敗します」 師匠は続けました。「世の中の全ての戦いの背後にある理由は、私たちの過剰な話し方です。だから、私たちはエネルギーを節約するために、必要な時だけ話すことが理想でしょう。内なる世界に向かいたいのであれば、私たちは口を閉ざさなければなりません。だからこそ、悟りを開いた全ての仏陀たちは孤独に向かって走るのです。話しすぎ、聞きすぎを避けるために、彼らは孤独の中で落ち着きを保ち、心の内側を旅したのです」
現代の私たちにも、私たちが口にする言葉を注意深く用心することで、私たちは落ち着いた状態を保つことができます。沈黙には大きな力があります。しかし、一つだけ、沈黙することの注意点があります。感情を抑えつけてはいけません。感情は抑えつけると、ストレスとしてあなたの中に負の感情が蓄積していきます。そうすると、その負の感情はあなたをむしばむでしょう。そうではなく、あなたの感情を理解し、受け入れ、そして、ゆっくりと「受け流す」ことが大切です。内面のあなたに優しくしてあげましょう。そうすれば、「沈黙」があなたの人生の力になることでしょう。
「沈黙」
「信頼」
「情けは人の為ならず」 多くの人が意味を履き違えていることわざの一つでしょう。本来、「情けは他人の為だけではない、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから誰にでも親切にせよ」という意味があります。
近年、インターネットの普及によって、「人間不信」に陥る人は増えてきました。ネット上に存在する人物は、信用や信頼が置きづらい。真実が掴めず、周囲からは不安なニュースばかりが流れてくる。この状況下で他人を「信頼する」ことのは非常に困難でしょう。
その上で「信頼」を定義すると、信頼は、人間関係というよりも自分の人生を豊かに生きる上で欠かせないスキルのひとつであることに気付かされます。まず相手を信頼する。相手に信頼して欲しいという感情は二の次三の次であり、生まれた瞬間から全力で親を信頼するように、生きていく過程でいろんな人を自分から信頼することはとても大事なことであります。仮に間違いだったとしても「信頼した」という事実は真として残り、いずれかは救われる日が訪れるものです。
では、ここでベクトルを己に向けてみましょう。突然ですが、「怒り」は心を毒します。孤独と悲しみの人生へと誘います。では、どのようにすれば、心から怒りを一掃できるのでしょうか。怒りは己を毒蛇に変えてしまう程、周りの人々を噛み付いては傷つけ、周りに避けられる原因を作ります。他人に避けられるのは悲しいことです。しかし、己の毒がより強力になると、怒りは憎しみへと代わり、次に恨みへと変わります。人々に避けられることは孤独へと変わり、それが疎外へと変わります。しかし、怒りは時には必要でないかと考えさせられる場面もあります。怒りは私たちが正義を回復し、世界の不公平を正すのに役立つのではないか、そう思うこともしばしばあります。では、良い裁判官を思い浮かべてみましょう。その裁判官は怒りに満ちているでしょうか。それとも冷静な判断を下せる存在でしょうか。そう思うと冷静な裁判官を思い浮かべることができるしょう。仮に怒っている裁判官がいるとしたら、その裁判官は偏見を持ち、不注意で気が短く、事の経緯を正しく理解しようとしていないでしょう。怒りは私たちの判断を曇らせます。怒りはただ痛みを相手に返すことしかできません。しかし、良い裁判官は全ての痛みを終わらせることに関心があります。怒りは相手が痛むことを望みます。良い裁判官は両方の人々が繁栄し、傷つくことがなくなることを望みます。それが真の正義です。では、どうやって怒りを克服すれば良いのでしょう。恐れと同様、怒りを克服するためには、根本から完全に取り除かなければなりません。怒りは思考によって生み出されます。誰かが私を侮辱した、傷つけた、信頼を裏切った、軽視した、利用したなどの思考です。だから、怒りはその思考から生まれます。その思考は欲望から生じます。人々への期待という欲望です。人々が私の期待を裏切ったと相手を責めます。それが怒りの源です。
では、人々に期待を持つことは悪いことでしょうか。怒りを持ち続けたいなら、他人に期待を持つことは非常に有効です。怒りに満ちた心の運命は正義に導かれません。それは疎外と悲しみに誘います。よって信頼関係を築くことは困難でしょう。しかし、期待という欲望が消え去るとき怒りはおさまってきます。そして、その欲望は、私の勘違いを暴くと消え去ります。そもそも、誰かが「すべき」ことを、どうして他人が決められるのでしょうか、「すべき」という言葉の真の意味は何でしょうか。「すべき」に続くすべては方向です。それは指示です。私は他の誰もがアクセスできない人生の一連の指示を持っているほど特別なのでしょうか。私は他の誰もが歩むべき目的地や、そこへの道を知っているほど特別なのでしょうか。何かを食べる前に、それが安全かどうかについて期待を持つでしょうか。それは期待ではなく、予測です。私たちは予測なしには生きられず、たとえ己が望んでも、脳が未来を予測することを止めることはできません。しかし、期待なしに生きることはできます。実際には期待を手放すと、心は世界を「すべき」だと思うのではなく、実際の姿で見ることができます。そして、世界をそのままの姿で見ると、心は予測する能力を高め、心が予測する能力が高まると、世界をナビゲートする能力が高まります。一方でプライドは期待につながり、期待は怒りに繋がり、怒りは正義の障害になります。正義とは、木に水をやり、木が皆んなに果実を与えることです。木も皆んなも痛みなく繁栄します。木が果実を与えないので、私は木に水をやらない。そして、水をやらないので木が果実を与えない。そのようにして下降のスパイラルが続き、最終的には両方なくなってしまうのです。
「信頼」とは深く考えさせられる言葉です。私たち人類が生きるこの奇跡の地球(ほし)に信頼という一本の糸が80億人の人々を繋いでくれるとするならば、限りない資源を育む世界が誕生することでしょう。